クラシックの曲でイメージとタイトルが一致しない事ってよくあると思います。というのも、ほとんどが純音楽であるバロックからロマン派にかけての作品には、作曲者自身が懇切丁寧に名前を付けてくれたものは少ないです。ベートーヴェン自身がつけたピアノソナタ「悲愴」などはイメージとタイトルが一致する稀な例で、「告別」の冒頭では旅立ちを告げるホルンのモチーフが登場するから、Les Adieux 「告別」の名前には納得できます。副題をつけるときによくある、献呈した人の名前をつけるのも、変な先入観を抱かなくていいので全然オッケーです。
なんで今日はこんな話をするかというと、全日本学生音楽コンクールのプログラムに刷られたタイトルがChopin Etude「牧童」となっていて「あれ、なんだっけ」と思ってしまったからです。僕は断言できるけど「牧童」という言葉は生まれて一度も使った事がない。「昨日警固山の牧童が笛を吹いていてさ、あれはいい曲だったな」。ないですよね。時代は違うし、住んでいる土地も北海道とかではないですし。学生コンクールで目にした「牧童」という言葉は、なんだか前時代的で嫌な感じがした。ショパンと同年代のシューマンはこの美しいエチュードを「エオリアンハープ」と呼んだらしい。どうですか、ずっと詩的だと思いませんか。僕だってネーミングセンスに自信はないけれど「牧童」よりはましな名前をつけますよ。例えば「朝霧のテラス」とか「入道雲はすぐそこに」とかね。
イメージとタイトルが一致してない、とも言えない「運命」「英雄」「革命」。違和感がないのはきっと何百回も刷り込まれているせいでしょう。どれも勇ましく、直立不動すぎてどうなのかと思う。ショパンのエチュードop.25-12「大洋」にいたっては軍艦の名前みたいで好きになれない。久しくお目にかからなかった「牧童」という文字を前にして感じたのは、自由で限りなく個人的な音楽の本質に触れることなく、ただひたすら「血の滲む努力」を強いてきた日本のピアノ教育の悪しき伝統を垣間みたからかもしれない。たぶん、68年前からエチュードop.25-1は「エオリアンハープ」ではなく「牧童」のままなのだろう。もう変えてもいいと思うんだけどね。
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